ちょっとエロ
錆びた鉄の味がした。
切った指を舐める舌が僕の指全体を舐めまわし、その口に含んでしまう。そんな光景をただ眺めているだけでまるで夢心地だと思った。バカみたいに僕の指をしゃぶる、口の中に含んで必死に舐めまわしてべたべたにしようとする、その努力が涙ぐましくて笑いを誘う。
いや、きっとバカみたいなのはそんな光景を他人事のように感じている自分だと思う。
まるで実感が無い。指を舐められても、くすぐったさも感じないあたりは自分は病気なのではないかとまで疑ってしまいたくなる。おかしな病気なんだ。指先の感覚がまるでない。
病気に対する免疫が皆無と言っていいほど無い僕は、病気にかかったらきっと死んでしまうだろう。だからきっと、これは死の前触れだ。きっと僕はもうすぐ死ぬんだ。
「ネスの血、甘い」
僕の指を口内から出し、それでもしつこく舌先で舐めながらにんまりと笑うマグナはやっぱりどこかおかしい。うっとりした表情で血を舐めて、あまつさえ「甘い」と言う。
「君の舌がおかしいんだ」
「そんなことないよー。俺、味覚は正常だもん」
「じゃあ君の頭がおかしいんだ」
「それは言えてる。でも、それはネスだけだよ。ネスだから俺、おかしくなるんだ。ネスの所為だよ。責任取ってよ」
僕の手を握ったまま、マグナは顔を寄せる。反射的に目を閉じるとカチリと小さな音がした。マグナの唇は来なかった。
おそるおそる目を開くと苦い顔をしたマグナが僕の目をじっと見ていた。
「マグナ?」
「ネス…取っちゃ駄目?見えないのって嫌?」
メガネに手を伸ばして、それでも困ったように手を彷徨わせてはフレームを握ったりしている。
いつも気など配らないで、僕の気持ちなどお構いなしで行為に及ぶ癖にメガネにだけは執心なのか決まって尋ねる。
僕はそれに決まって頷く。
それは決められた約束事に過ぎない。全く同じ。毎回ただ同じ事を繰り返すのにわかりきったことをマグナは尋ね、僕はそれを咎めようとせずに頷くことで肯定する。
幾度か繰り返された行為の中で、それだけが僕とマグナの暗黙の了解だった。
マグナの手が僕のメガネのフレームを掴み、そっと外す。
僕はぼやけた視界の先にマグナを捉える。実像がはっきりと見えないのに何故だかそのくせっ毛だとか、はにかんだ笑みだとかはよく見えた。
カチリと音がしてサイドボードにマグナがメガネを置く。それも一つのサイン。
沈むベッド、ぼやけた天井、マグナのくせのある毛。
それらはいつもと同じで、視界ははっきりとしていないのに天井の染みの形がミョージンに似ているだとかそんなことばかり考えていた。それもいつもと同じだった。
ただ、左手の人差し指以外は。
強く抱きしめられて、体中が熱いと思った。体の中も外も熱くて苦しい。全てにマグナが居た。
吐息ですら熱くて、そんなことを思っている自分がバカみたいで、ふと左手の人差し指を見ると血はすでに凝固していた。マグナに舐められてふやけていた皮も元に戻っているのに少しつまらない気がした。
もっと長く、血が流れていればいいのに。
「ネス?」
「ん…どうかしたか?」
「どうかしたって言うか…状況わかってるよね?」
「勿論だ。これほどわかりやすいこともないだろう」
人差し指ばかり見ていたからか、不満そうなマグナの文句が飛ぶ。こんな時でさえそんなマグナが妙に子どもっぽく思えて何だかくすぐったい感じがした。
幼いマグナがいつの間にか大きくなって僕を組み敷くまでに成長していた。僕もその間に同じように大きくなった。
「何考えてるの?ネスって」
「何って…色々だ」
「それ。全部聞きたい。ネスの考えてる事端から端までぜーんぶ」
「端から端までって…そう言われても説明しきれない」
「じゃあさっき考えてたことでいい」
体ばかりが大きくなって、それでもマグナはまだ子どものように無邪気なところがある。好奇心旺盛に目を輝かせることもあれば時折手がつけられないほどに暴れて僕にもどうしていいのかわからなくて困る。
幼い頃であったなら、まだ僕の力でも抑えられたけれど今のマグナが暴れると僕にはどうしようもなくて、いつものルールもなしに行為に持ち込まれることが何度かあった。
「ネスぅ?」
「ああ…小さい頃のことだよ」
「小さい頃?それって俺と出会う前?」
「いや、君と出会った後だ。あの頃の君はまだ可愛げがあって良かったなあ、とか」
「むうー…まあ、俺がいたんならいいや。でも今は今の俺のこと考えてよ」
顔はすっかり大人びて精悍な顔立ちになっているのに笑うとそれは幼いあの頃のマグナの笑顔で、どうしてもあの頃と重なる。
一度考え始めればキリがなくて、マグナもそれを知っているからこそ『今の自分を見て』と言った。にも関わらずやはりどんどんと考えは過去へと遡り、どこか遠くでマグナが溜息を吐くのを聞いていた。
「駄目?」
「ん…ああ、すまない。こればかりは性分だ」
「わかってるけど。昔の俺に、俺、嫉妬しちゃうから」
ぶうーとむくれて見せるマグナに僕は苦笑する。
可愛い、と言ったら怒るかもしれない。逆に喜ぶかもしれない。どちらにしろ個人的には言いたくもない言葉なので言わないけれど。
「ネースぅ」
やっぱり可愛いと思う僕は病気だ。
「ネスって、昔のこと好きだよね」
まどろみながらマグナがそう言うのを僕は話半分で聞いていた。
「昔のこと?」
「ああ、うん。昔のこと考えるの。それで俺のこと可愛かった可愛かったってさー。今の俺が全然可愛くないみたいじゃない」
「可愛いと思っていたのか?」
「……思ってないんだ」
「…さあ」
またぶうーっと膨れる。ああ、可愛い。絶対に言わないけれど。
膨れたまま、僕の手を取ってしげしげとマグナは指先を見つめていた。僕は睡魔に襲われてうとうととしながらも何とかマグナの次の行動を待った。
ぱくん、と指を口に含むのを。
「……」
「……」
「……マグナ!」
「ネス反応遅い」
「そういう問題じゃないだろう!君は何をしているんだ!」
ばっとマグナから手を振り払う。マグナはちえーと言いながらも右手の親指で自分の唇をなぞった。それはぞっとするほど大人びた仕草だった。
「まだ怪我、治ってないかと思って」
「…もう傷口は塞がっているよ」
「うん。でもやっぱ血の味したー」
「……甘かった、のか?」
うーんとマグナは考え込む。先程自分の言った言葉さえ忘れてしまっているのかもしれない。マグナならあり得る。
「甘かったって言うかなあー…甘いんだけど、ちょっと違うかな、うん」
「どう違うんだ。さっきと血の味なんて同じだろう?」
「そうだけど。でも何かちょっと甘いだけじゃなくてー」
ううん、と何度も考える仕草をした後、マグナはもう一度僕の手を取った。力任せに掴まれては僕は抵抗出来ない。力ではもう一生勝てない。
マグナはそのまま、左手の人差し指を躊躇いもなく口に含んだ。舐めて、吸う。
幾度か口内を出たり入ったりして舌先や腹で弄ばれ、僕の指はマグナの唾液でベタベタになる。指先だけ皮がふやけていく。
何分経ったのか、それもわからないほどに長く舐められ、マグナが満足した頃に開放されたが腕が痺れてしまってもう感覚がなかった。
「うーんとね、錆びた鉄みたいな味がする」
にこにことマグナは笑う。子どものような、それでいてどこか大人びた笑みは僕を凍りつかせるには充分だった。
錆びた鉄の味がする。
それと同じ言葉を誰かに昔言われた。誰だっただろうか。フリップ様だったか、それともその前任か、もしくは先祖の記憶の中か。全くデータが残っていない。ただ言葉だけが確かに刻まれていた。
「ネス?」
「錆びた、鉄の味がするのか?」
妙に声が上ずったのにマグナは眉を寄せる。
「そうだよ。ネスは血の味も変な味がするの?」
「……わからない。僕は血を舐めたことはないから」
血は怖い。だから舐めるなんて考えもつかなかった。どれだけ血が流れても、水で荒い流して止血をするくらいだった。マグナが舐めるまではそれが手当てだとも思ってはいなかった。愛撫の一環なのだと思っていた。
「錆びた鉄の味って、どんなのだ?」
「そう言われるとなあ。俺も実際に錆びた鉄舐めたわけじゃないからわかんないんだけど。ただなんとなく舐めたらこんな味するだろうなーって味。たまにない?匂いだけでこんな味するだろうなーとか思うの」
「そんなものか…」
「そう。そんなものだよ。それよりどうしてそんなことを?また、昔?ネスの知ってる昔?ネスの知らない昔?」
マグナの問いかけは正しくない。僕の記憶全てが僕の知っている昔だ。
過去の記憶はどこまでも記憶で記録ではないと思ったところでそれはほとんど記録に近く忘れたいこと1つも忘れられないのは不便だと何度も思った。必要な知識と不必要な、それも知りたくも無いような記憶が僕の体験でもないのにまるで僕自身が体験したことのように不意に蘇るのはとても不愉快かつ気持ちが悪かった。
「全部だ」
だから僕もこう答えるしかなくまたマグナの不機嫌そうな顔を見る羽目になる。
「ネスはどうしてそんなに昔に拘るの?覚えているから?忘れられないから?」
「……君にはわからないよ」
「うん。俺には全然わかんない。俺は今こうやってネスと隣に並んで寝てるだけでもう他のことは全部どうでもいいくらいに思う。俺の過去の何もかもネスにめぐり合えただけでどうでもいい。でもネスはそうじゃないんだよね?」
「そうだ」
それは僕のことで、それは僕にしかわからない。マグナのことだってマグナにしかわからないことは本人が承知している為か、マグナからの反論は無かった。
ただもう一度手を取って、ふやけた指をまた口に含んで、それから僕の目をじっと見てきた。
暗い暗い、欲望を瞳に押し殺して。
記憶の片隅から初めて出会った頃のマグナが蘇る。あの時のマグナは子どもらしさの欠片もない、獣のような飢えた眼をしていた。
どれだけ取繕おうと、奥底のマグナ自身は代わってはいない。
それが妙に嬉しくて、僕は頷いた。
先程した行為を繰り返すのに苦痛はほとんど無かった。
マグナに抱かれる度に記憶の奥底で悪夢のような光景が蘇るのを僕はただ流されるままに見る。
それは僕自身の記憶であったり、先祖の記憶であったりした。
マグナはいつだって過去をどうでも良さそうに言う。何でもないように自分の過去を話すマグナに僕は羨望と嫉妬を抱くほどだった。
何も知らない癖に、と思うと同時に割り切れるマグナの考え方に憧れていた。それは忘れられるマグナだから可能な話で、忘れられない僕には不可能な話だと知っていたけれど。
今を生きれるのならばどれだけいいだろう。いつまでも過去に囚われて、そこから抜け出せない僕にはずっとずっと、不可能な話だ。記憶は記憶ではなく、記録だから。
「ネス、ネス……」
切羽詰った声で僕の名を呼ぶのに僕は意識を今に戻す事が出来る。
もっと、名前を。そうでないと僕は誰だかわからなくなってしまう。
「マグナ」
そうして僕も名前を呼ぶ事で相手を確認出来る。マグナだ。この世で一番近しく、愛しい者。
「あっ」
僕の指を口に含み、散々舐めまわした挙句マグナはその指を強く噛み締めた。鋭い痛みに悲鳴を上げることすらも忘れる。
「あっ、あ、マグナ…痛いっ……」
左手の人差し指の付け根にくっきりとした歯形が残る。マグナはそれを何度か舐めて、満足そうに微笑んだ。
「ネス、舐めてみてよ」
「マグナ…どうして」
「血の味、するから」
「マグナ……」
マグナの唾液でベタベタになった指を口元に運ぶ。確かに血がじわりとにじみ出ていた。
手の平を横向けてそっと歯形に舌を這わせるとねっとりとした液体が纏わりつくのに気持ち悪くて口を離した。
「駄目、ネス。ちゃんと血が止まるまで」
「……わかった」
何度も何度も僕は傷口に舌を這わせる。必死に舐めて、しゃぶって、過去の記憶も一緒くたに流れて、目の前が真っ赤になる錯覚を覚えた。
「どう、ネス」
「血の、味がする」
「甘い?」
「いや…これは……」
甘くない。もっと他の、何か。
「ああ、そうか」
流れる血から、錆びた鉄の味がした。