今日こそは、と少女は心の中で何度も呟く。自らの部屋から彼女の部屋まで、ゆうに2分もかからない距離を俯いたまま、5分かけて歩いた。
扉の前に立ってからも少女は手を伸ばしかけてはやめる、を繰り返す。どう言えばいいのかを何度も頭で繰り返しシミュレートしてみるが、彼女が微笑む答えがどうしても導き出せない。
扉の向こうはしんと静まり返っている。しかし、居ない筈はないのだ。誰も朝食後に彼女を目撃した人はいなかったのだから。だから、ただ静かに読書か何かをしているだけだろう。
いざ!と握り拳を作ると、少女はそれを目の前の扉に軽く当てた。コンコンと二度、音が響く。
「どうぞー」
返事があったことに、ほっと息を吐く。その途端どっと疲れたように感じて少女は己がとても緊張していたのだと悟った。こんな経験は今まで生きてきた中でも数度しか数えたことがないのに。
幾度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。ようやく落ち着いてきたのにドアノブに伸ばした手はあっさりと宙に浮いた。
「どしたの?」
目の前できょとんとカシスが瞬いている。あの、と言おうとして声が出ず少女の口からはひゅうと呼吸音が鳴った。
「変なアヤ。入るんでしょ?」
くるりとカシスが背を向けて部屋を案内するように先を歩く。くるりと、その後ろ髪が跳ねていることにアヤは気付いた。
「あの」
今度はちゃんと言葉になった。カシスが気付き振り返る。
「髪、跳ねてます」
「ええーまぁ、いっか」
「駄目ですよ。ちょっと待っててください」
踵を返すとアヤは廊下を走って自分の部屋へ戻り、櫛を手にするとまたカシスの部屋へと戻る。辿りつくのにやはり2分もしなかった。
「座ってください」
「ええー」
「カシスさん」
「はーい」
渋々と言った調子でカシスは備え付けの椅子に腰掛ける。アヤはその背後に立つとそっとくるりと跳ねた髪に櫛を通した。くるくる、寝癖か何か、カシスの癖はなかなか取れない。
「難しいですね」
「だからいいってばー」
「駄目です」
何度も櫛を通し、癖を整える。それでも癖は直る気配を見せなかった。
「カシスさんの髪は、少し難しいですね」
「そうなの?」
「ええ、でも、羨ましいです」
「…そうなの?」
わからないなぁとカシスが首を傾げようとするのに、後ろから真っ直ぐ見ていてくださいと言われて中途半端に首を止めて戻す。
何度も髪を梳くことを繰り返しているうちに少しだけくるりと跳ねた髪が整えられたのにアヤは気を良くした。しかしこれで限界かな、と悟ると手を止める。
「いいの?」
「はい」
やっと開放されたことへの喜びか、カシスは大きく背伸びをすると振り返った。
「で、何しに来たの?」
「あ」
すっかり髪を梳かすことに夢中で、当初の目的を忘れていたのにアヤは櫛を持った手で口を覆った。カシスはなんだか面白そうに口元を歪める。
「…誘いに来ました」
「なに?デート?」
「…もう。一緒に来てくれるのでしたら、デートで構いません」
「えーっ。もう、つまんないなぁ」
最初こそカシスの言動に戸惑ったものの、慣れればどうってことないらしくアヤの反応はさらりとしたものになってしまう。カシスは拗ねたように頬を膨らませると椅子の背凭れに顎を乗せた。
「嫌、ですか?」
「うーん…まぁいいや。いいよ、デートしよ」
「はい」
やはりシミュレートを重ねた通り、彼女は微笑まない。けれど頷いてくれただけでも嬉しかった。
「これが、デートかぁ…」
帰ろうかな。今にもカシスがそう言い出しそうで、アヤは内心はらはらしながら笑みを浮かべた。頬が引きつるのは致し方ない。
「駄目ですか?」
「んーまぁ、たまにはいいけどね」
木の根元に腰を落ち着けて、カシスは手持ちの本を開いた。
「しないのですか?」
「だってそれ、一本しかないでしょ?」
「あ…」
「それによくわからないし。あたしはいいよ」
アヤの手にある、一本の釣竿を指差すとカシスは開いた本に視線を落とした。こうなってはどうしようもなく、アヤはひゅ、と音を鳴らしながら釣竿を振った。
ポシャンと音を立てて針が沈む。浮きが浮いたり沈んだりを繰り返すのをぼんやりと眺めながらぐるぐると考える。これで良かった筈なのだけれど、なんだか良くない。かと言って何を話しかければ良いのかもわからない。また繰り返すシミュレート。でもやっぱり彼女は微笑まない。
ぷかぷかとした浮きの音、ざあざあと水の音、時折魚が跳ねてパシャンと音を立て、水面を風が通り過ぎる。遠くでは猫がみゃあと鳴いている。静かな空間で、急に呼ばれたような気がしてアヤはそちらを見た。
「…カシスさん?」
カシスは読んでいた本を閉じてアヤをじっと見ていた。視線が合ったことに動じる様子も無い。
まさか帰るって言い出さないでしょうかと、アヤが不安に思ったときカシスの口が動く。
「楽しい?」
「え、そうですね…私は楽しいですよ」
「へえー」
「…やってみますか?」
「うーん」
興味無さそうな返事をしながら、カシスは近寄ってきてアヤの隣に腰を下ろした。ふふ、とアヤは笑って針を一度引き揚げると釣竿をカシスに手渡す。
餌の有無を確認するとカシスはそのまま、軽く釣竿を振り針を水中に落とした。んーと唇を尖らせてくいくいと釣竿を引いたりしてみる。
「お上手ですね」
「アヤの真似」
「…そうなのですか?」
そんな風に口を尖らせて?と言葉にはせずただ眉を寄せる。
カシスはそんなことも知らず唇を尖らせて浮きを見つめていたが、急にパシャンと竿を引き揚げた。
「あ」
「え?」
「うん、これは早いのかー」
「ああ…何か手ごたえがありましたか?」
「あったと思ったんだけどなー」
ううんと唸ってカシスは再び糸をたらした。また沈黙が二人の間に降りる。水音、鳥のさえずり、風の音、猫の鳴き声、時折漏れるううんと唸る声と呼吸音。
アヤはカシスの茶色の癖っ毛を眺めていた。後ろ髪がまた跳ねている。けれど今ここでそれを直したいとは言えない。櫛はまだ持ったままだったけれど、釣りに集中している彼女の邪魔をしたくはなかった。
「ねえ」
「え?」
突如話しかけられ、髪から横顔に視線を移す。カシスは水面を見つめたまま、アヤを見てはいなかった。話しかけられたと思ったのだけれど、とアヤが考え直しそうになったところでカシスが口を開く。
「アヤはさ」
「はい」
やっぱり話しかけられていたようでほっとしながらアヤはカシスの言葉を待った。
「どうしてあたしを誘ったの」
口を尖らせ、釣竿を軽く振りながらカシスは言う。それが問いかけのようで答えを求めていないことにアヤは気付いた。
「嫌でしたか」
答えずに問い返せば、ううん、とカシスは口元でだけ返事をした。
結局それだけでカシスはまた口を噤み、アヤも言うことも思いつかずただ風に揺らされる跳ねた後ろ髪を眺めていた。
「そろそろ帰りませんか?」
「そんな時間?」
熱中していたのか、顔を上げてきょろきょろと辺りを見回してからカシスは立ち上がり針を引き揚げた。その先には何もついておらず、あちゃあ、と短く声をあげる。
「餌、取られてたんですね」
「そっか」
「何も釣れませんでしたね…」
「だね」
んーと体をほぐすように背伸びをしてカシスは釣竿をアヤに差し出す。それを受け取ってアヤも立ち上がり背を伸ばした。
「どうでしたか?」
「ん?あーうん、悪くないと思うよ?」
少し考えるそぶりをして、カシスは口元を僅かに歪めた。驚いてアヤは瞬きを繰り返す。望んだ形とは少し違うけれど、彼女が笑ったことにただ見つめることしか出来ない。
「なあに?」
「え、いいえ、その、髪が」
おかしいと思ったのかカシスが問いかけるのにアヤは慌てて首を横に振ると跳ねた髪のことを告げる。んーとカシスは手で後ろ髪を撫で付けて、ああーと変な声を出した。
「だからいいって言ったのに」
「でも」
言いかけたところで強い風がひゅうと音を立てて二人の間を吹き抜ける。ふわりとスカートと黒髪が舞う。
「…帰ろっか」
「…はい」
少し冷たくなった風に、カシスが首をすくめると歩き始めた。追いかけて隣に並ぶ。寒いなぁとカシスが呟くのが聞こえて、アヤは少し考えるとそっと手を差し出した。
「なに?」
「手を繋ぎませんか?」
「ええ?」
「少しですが暖かいと思いますよ」
「んー」
戸惑いながらアヤの顔と手を何度も見比べていたが、また強い風が吹いたのにカシスはその手を取った。
「暖かいかなー?」
「そのうちには」
「そう?あ、でもこれってデートだよね!」
いい事に気付いた!とばかりにカシスが言う。ああ、また始まったとアヤは笑った。
「はい。デートですね」