「って何してるんですか?」
左目の上をなぞる指先にアレンが苦情を訴えたのは当然の権利とも言えた。
「んー手当てさね」
「手当て?」
そ、と軽く笑ってラビは繰り返しアレンの左目をそっと指先でなぞる。なぞりながら、僅かに歌を口ずさんだ。
「痛いの痛いの飛んでいけー」
「だから、何ですかそれ」
ぷう、と膨れながらアレンはラビの手を自然と払いのける。しかし払いのけられたラビは自然と思えずに逆にぷう、と頬を膨らませた。
「おまじない」
「は?」
「だから、おまじないさあ!」
叫んで、そっぽを向いたラビに対し今度はアレンがきょとんとして、次に言葉を探し出した。ええと、を繰り返し繰り返し呟いては口ごもる。
結局、えーとえーとを数度言って、二人とも全くの無言となった。
気まずい空気。それにアレンは慣れずきょろきょろとあたりを見回す。リナリーでも通りかかれば助けてもらおうという魂胆であったが、誰一人として通り過ぎる気配もなかった。
助けてください、とアレンの願いが通じたかどうか。それはさだかではないが気まずい空気を切り裂いたのはラビの口から漏れ出た音であった。
ふ、と言う空気音をはじめとして、ケラケラとラビは腹を抱えて笑い出す。アレンはそれについていけずぽかんと彼を眺めるに留まった。
やがて笑い声がやみ、ラビは呼吸を整えながら目じりに溜まった涙を拭い顔を上げる。
「はー笑ったあー」
はーはーと未だ整わぬ呼吸をしながらもラビは上目遣いでアレンを見上げる。見られたアレンは困惑を隠しきれないままもラビをきっと睨み付けた。
「なんですかもう!」
怒りたいのはこっちですよ!とぶちぶち文句を口にして、アレンが今度はそっぽを向いた。
「ややや。悪かったってばさー。アレンが早く直りますようにーってお祈りをしながら手当てしたかったんだって。いきなり左目触ってごめんよぅ」
両手を合わせて、ね?と僅かに首を傾げて許しを請うラビの姿をちらりと横目で確認して、アレンはぷうと膨らませた口から空気を抜いてわかりました、と呟いた。
「いいです。その気持ちは嬉しいですし…その、ちょっとびっくりしただけで怒ってるわけじゃありませんから。でも、その『痛いの痛いの』…って言うのは何ですか?」
「んー言うと怒られるんだけどさぁ…」
ラビは許してもらえたことにえへへ、と笑いながら後頭部を掻き、一度深くため息をついた。
「絶対本人に言わないでね」
「はあ。本人…って?」
「ユウ」
「ユウ……神田ぁ?」
「そ」
あの人、とばかりに二人は目線を合わせた。彼の名が出ただけでひきつったアレンの表情にラビはまたため息を吐く。
「『痛いの痛いの遠くのお山に飛んでいけ』…ってさ?」
「いたいのいたいのとおくのおやまにとんでいけ…」
呆然としながらアレンも呟く。
「それを神田が言ったんですか?」
恐ろしいものに触れようとするアレンに、ラビは力強く頷く。
頷くラビを確認すると同時にうわああああ、とアレンは叫びながら頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「ありえないありえないありえない」
「や、まあ俺も思ったけどさぁ。なんちゅーか怪我してちょっと寝た振りしてたらいきなりそれよ?」
「嘘だ嘘だ嘘だ」
「いやいやマジよー。頭打ったんだけどさーしたら優しく頭撫でながら痛いの痛いの遠くのお山に飛んでいけーってさ」
「やだやだやだ」
ぶんぶんと首を振って否定しようとするアレンに、同じく膝を抱えるようにしゃがみこんで顔をそっと覗き込んで、ラビはにっと笑った。
「嘘さー」
「え」
ぴたりと止まって恐る恐るアレンは顔を上げる。目線を合わせて、にこにこ笑うラビにほっと安心した。けれども。
「なんつって」
ほんとだよー。よしよし、とアレンの頭を撫でるラビに、アレンは完全に凍りついた。
「痛いの痛いの遠くのお山に、飛んでいけー」
アレンの頭を撫でていた手を、そっと横に流すように離すとラビは呟く。それは恐らく彼自身がかのに人されたことであったのであろうが、アレンにはとても優しい音色に聞こえた。
「神田は…意外と優しいです」
「だな」
「口は悪いけど、嘘を吐くような人でもないです」
「うん」
「気休めなんて大嫌いだろうし、言葉に頼ろうとする弱い人でもないと思います」
「うん…で、どした?」
よしよし、とまた泣いた子をあやすようにラビの手がアレンの頭を撫でる。泣いていませんよ、とアレンは呟きながらそっと手を払いのけた。
「神田はあなたが大事だったんですね」
「は?」
唐突に飛んだ結論に、今度はラビが凍りついた。
だって、とアレンは口ごもって俯くと、次に勢いをつけて立ち上がった。
一連の動きを目で追い、ラビはアレンをぽかんと見上げる。
「頼りない、痛いの痛いの飛んでいけ、なんて言葉を使ってまでラビの無事を祈ってるじゃないですか」
きっとあの人は祈りなんて大嫌いだ、と零した瞬間、アレンのどちらかと言えば愛くるしいであろうその顔がゆがめられるのをラビはじっと見上げていた。そうして思い当たる。
「好きなん?」
「大っ嫌いです!」
「誰のことが?」
にやにやと笑いながらラビが立ち上がる。正面から見たアレンの顔は想像とは違い赤くは染まっていなかったことに驚きを感じつつ、また頭を撫でる。
「…あなたが、大嫌いです」
「たぶんユウが俺を好きだから?」
「神田も、大嫌いです!」
「言葉は神なんよ。それでもキライって言う?」
「だいっ……」
そこまで言って、アレンは俯いた。しん、と静まった空気に少しからかいすぎたかなぁ、とラビはアレンの頭を二度ぽんぽんと叩いてから離す。
しかしその手は完全に下ろされるよりも前にアレンの右手が手首を掴んでしまい、中空で固定される。
慌てて振りほどこうとしたラビが口を開くよりも前にアレンの呼吸音が耳に届いた。
「好きです!」
「はぁ!」
「好きですよ、大好きですよ。悪いですか!睨まれたって、殴られたって、斬られたって、好きですし好きになって欲しいです。僕のためにも祈って欲しいし僕のためだけに祈って欲しいし」
ぜえ、はあ、と呼吸を整えるように幾度か呼吸を繰り返し、アレンはゆっくり顔を上げた。今度は予想通り頬は赤く染まっていた。けれども、それとは対照的にその瞳は情欲にも嫉妬にも染まってはいなかった。
ラビはその瞳を呆然と見つめる。視線が合えば、その瞳が切なく歪むであろうことは想像に容易かった。
そして、思ったとおりにラビと視線が合った途端、アレンは切なげに瞳を歪ませる。しかしまるで感情の読めない瞳に、その奥に隠されたものを知りたい欲望に駆られた。
「あのさ」
「痛いです」
「へ?」
「痛いです。痛いです痛いです痛いんです」
「なん?どした?」
視線を外すことなく苦痛を訴えるアレンに、うろたえて触れようと手を上げかけたところでその手首がアレンによって固定されていることを思い出す。
「アレン、手」
「痛いんです。ここが」
ぐっと、その手が引き寄せられる。それはまっすぐにアレンの胸元に寄せられた。
「遠くのお山なんて僕の知ったことじゃないんです。ラビ」
「…」
「痛くて苦しいんです。こんなときはどうすればいいんですか」
「そりゃあ…」
導かれた手で、そっとアレンの胸元を撫でる。
「痛いの痛いの遠くのお山に飛んでいけー」
歌うようなそんなおまじないに、アレンは口元を歪める様に笑った。
「遠くのお山とは、言ってくれるなぁ」
一人残され、壁にもたれかかるとラビははあ、とため息を吐いた。
「ほんとに痛くなったさぁー」
胸元をぎゅうと押さえて、再びため息を吐く。
まっすぐに見つめる瞳。掴まれた手の痛み。それがまるで告白を受けたのが自分だったように思えて笑えてくる。
遠くのお山の痛みは誰にあげたらいいんですか。
おまじないとは一種の呪いなんだとある人が言っていたことを思い出す。
呪われた彼は恋をして、恋したあの人に呪いをかける。そうしてまた、呪いをかける彼を見た自分も呪われたことが愉快でたまらなかった。