ホイッスル:シゲタツ
ゲスト原稿で書いたもの。
じめじめと蒸し暑い日々、飽きるほどに見ていた黒雲が消え、空を眩しい太陽が陣取る。雲一つない晴天の中、ぽっかりと浮かぶ太陽はやけに眩しく不気味な程に輝いていた。
ああ、もうすぐ夏が来る。
つぶやいた誰かの言葉がいやに耳に残った。
窓の外は五月蝿いと文句を言う気力も湧き上がらない程に蝉の声が響き渡っていた。どいつもこいつも周りのことなど気にも止めずジージージージー死ぬまで鳴き続けるのだろうか。
もうすぐ夏が来る。
言わずと知れたそんなことをわざわざ口に出すのも馬鹿らしい、と思ったのに何故だかその言葉が耳からいつまでも離れない。夏が来て、秋が来て、冬が来て春が来て。そうしたらまた夏が来る。そんな当たり前のことなのに特別何かを待ち望むかのような。
思えば、あの言葉を言ったのは誰だったか。
声でさえぼんやりとしか思い出せないというのに妙に引っかかったその言葉に、窓の外を見る振りをしながら何度も思い悩んだ。
バタバタと下敷きを扇ぐようなそんな音が側でするものの蝉の声に比べれば気にもならずに窓の外へ視線をやったまま動かずにいた。下敷きを扇ぐ音も、蝉の声も夏場にはよく聞く音だ。
夏が、来る。
否応にも考えてしまったその言葉に、何か、思い出したような懐かしい記憶が蘇ったような、そんな思いに胸が痛んだ。
ふわり、こちらの意思などお構いなしのように突然吹いた風に煽られて髪が頬をくすぐった。右手でその髪を押さえて何事もなかったように外を見ていたが、バタバタという下敷きの音と共に風がふわりふわりとこちらに向かって吹いているのだと気付き、ゆっくりと視線をそちらへと移した。
◆◇◆
にんまりと子供じみた――一見そのように見える笑みを浮かべた成樹を視界に捉えると、竜也は目を細め睨むような表情をした。
ひらひらと成樹が持つ赤い透明な下敷きが上下に揺れる。その度起こる風が髪をふわりとなで上げる。そんな様子を面白そうに成樹は笑っていた。
「……シゲ」
「なんやぁタツボン」
「うっとおしい」
「暑いやろー思て折角扇いだっとんのにそりゃないやろー」
へらへらと笑ったまま赤い下敷きを扇ぐ事を止めない成樹に若干いらだったように竜也はぷいと視線を窓の外へと再び移した。
ジージーと鳴いていた蝉の声が途切れ、代わりに猫の鳴き声のようなものがする。ああ、捉えられたのかとぼんやり理解しながらも別段気にも止めることはなかった。他にも蝉はたくさん鳴いているのだから。
窓の外へ視線をやり、文句を言う事すら止めてしまった竜也をつまらなそうに見ながら成樹は自分をバタバタと扇いだ。生ぬるい風が直接肌に触れる。
「あっついなー」
同じように窓の外を見ながら、成樹の視線は天へと向かっていた。かんかんと照りつける太陽の光に目を細める。けれど真っ直ぐに見上げたまま目を逸らす事はなかった。
「ホンマ、敵わんわ。なんとかならんかな」
「……」
「せや、夏休みなったら海行かん?プールでもええねんけど」
「……」
「なんやもー蝉うるそーて敵わんしなー。北海道なんてどないや?結構涼しいんとちゃうかな」
「お前の方が五月蝿い」
だんまりを決め込んで無視をしていた竜也がちらりと成樹を見、つぶやく。そんな竜也に満足そうに成樹はにんまり笑うと赤い下敷きをその手に握らせた。
「悪いんやけどさー。センセにちょっと呼ばれとってん。待っとってくれるか?それ、人質」
「人質?人、かコレが」
「人ちゃうとかいらんことは言わんでええで」
軽く手を振ってケラケラと笑う成樹をやはり睨むように見、竜也はパタリと音を立てて赤い下敷きを机に置いた。
「置いて帰る」
「そら、タツボンのお好きなように。ほなちょっくら行ってくるわ」
宣言したことでさえも軽く笑うと成樹は教室を足早に立ち去った。取り残され、思わず見送ってしまったことが悔しく、椅子に深く腰掛けて窓の外を見る。
なんだこんなもの。置いて帰ってやる。
横目で赤い下敷きを見て心に誓うと再び何かを考えるかのように窓の外を見た。
◆◇◆
「あれ、水野君、いたんだ」
ガラリと戸を開く音と共に聞こえた声に竜也は振り返った。バケツとモップを手にした別のクラスの人間の姿に首を傾げる。
「風祭。なんでここに?」
「あ、うん。ちょっとうちのクラスが借りてたらしくって。返してきてくれって言われたから」
きょろきょろと置く場所を探しながらも質問に答える姿に苦笑して竜也はそこらへんに置いとけば後はやる、と伝える。と同時にパアっと今にも効果音がつきそうなほどに顔を綻ばせて将は頷いた。
「でも、もう帰ってるかと思ってたや」
「なんで」
「だって部活も無いし、授業だって終わって随分経つのに。なんで残ってたの?」
「なんで…って……」
「掃除でもしてたとか?にしても遅いよねー…ホラ、他には誰もいないし」
「別にいいだろ」
「んーまぁ、そうだけど」
未だモップを手にしたままによほど引っかかったのか竜也のことを気にする将を適当にあしらうことに決めて竜也は視線を将から窓の外へと向けた。正し、成樹のように上ではなく下へ。
猫が蝉を加えているのか不器用な姿勢で走り去る。
たった一夏の命だというのに、生殖を為すことなくヤツは猫の腹の中に納まってしまうのだろうか。自らの存在をあますことなくアピールし、異性を惹き付けると共に敵にもまた見つかりやすくなるというのにそれでも鳴きつづける気持ちはどうなのだろうか。
ぼんやりと視線を窓の外へやったままちらりとも自分を見ようとしない竜也に将はモップをぎゅっと握りしめた。
何かを言うべきか言わないべきか。けれどかけるべき適当な言葉も見つからず――己の非力さを痛感する。
「もう、夏だね」
やっと言えたその言葉は非常にありきたりで陳腐なものに感じられて将は顔を伏せた。まるで何気ない挨拶のようでいて、つまらない言葉だと。
けれど竜也は弾かれたように将を振り返った。右手が机の上をすべり、赤い透明な下敷きが床へカツンと落ちる。
「水野、君?」
「あ……」
赤い下敷きを気にも止めず呆然とした表情で自分を見る竜也に将は恐れすら抱き、モップを握る手から力を抜いた。何事かわからずに自分もまた呆然としているのだと意識の片隅で理解しながらも動けない。
コンコン、と2度ほどドアが叩かれる音に二人してはっと我に帰ったかのように振り向く。そこにはいつもと変わらぬ表情で不破が立っていた。
「不破君」
「練習、するのではなかったのか?」
「あ、そうだった!ゴメン」
モップ、ここに置くねと言い軽く頭を下げると駆け足で将は不破に駆け寄った。自らの鞄を受け取り、もう一度教室の竜也に頭を下げるとあっさりと扉の向こうに姿を消す。
一人教室に取り残された瞬間、蝉の声が一斉にピタリと止んだ。慌てて窓から身を乗り出すと数人の子供が虫取り網を片手にきょろきょろと辺りを見回していた。
ホラ、見つかった。
呆れたように床から下敷きを拾い上げて机に乗せるとその上に腕を組んで枕にするように竜也は顔を埋めた。
ジージーと蝉が鳴くのを再開する。子供が嬉しそうにはしゃぐ声が聞こえる。肌にべっとりとまとわりつくような感覚、照りつける太陽の温度。
もう、夏だ。
◆◇◆
「センセもひっどいわぁ。何も夏休みの宿題増やさんだってええやん」
ぶつぶつ呟きながらも手の中の本の重みがやけにこたえる。出席日数が悪いからと押し付けられた英語の本は誰でもが知っていそうな童話だった。
「夏休み中にって…夏休みの宿題かて十分多いっちゅーねん。まぁ、タツボンに教えてもろたらええんやけどー」
傍目から見れば独り言をぶつぶつ言いながらにやける姿はどう映っているのだろうか。幸いにも廊下には今現在人影はなく、誰も見てはいないので思う存分好き勝手に出来る。
「ターツボーン。お待たー……タツボン?」
教室のドアからひょいと顔を覗かせてにやりと笑ったのだが中からの反応はない。外を見ているのかと思えば、両腕を組みその中に顔を埋めている姿に遭遇する。
「泣いとるんかー?寝とるんかー?」
呼びかけながら近寄るも反応はない。そっと側にしゃがみこんで聞き耳をたてればすーすーと気持ちよさそうな寝息が聞こえたことに妙な安心感を覚えた。
「泣いてはおらへん…と」
軽く髪を梳いてみたが起きる気配は一向にない。そうなればちょっとした悪戯心が芽生える。
両腕に顔は埋めている、とは言っても頬は隙間から出ている。そこを指で軽く押し、そっと様子を窺う。まだ目を覚ます気配はない。
そっと屈み込み、触れるだけのキス。指ではない妙な感触に気付いたのか若干うめき声を上げながら眉を寄せ、腕で目を擦りながら体を起こした。
「おはようさん」
「……」
眠っていた姿を見られたからか、若干不機嫌そうに窓の外を見てしまう。妙に可愛らしいその仕草に苦笑すると机の上の下敷きを拾い上げた。人肌で温もったぬくもりは太陽のそれとは違い、心地よい。
「ほな、帰ろか」
「先生何の用だったんだ?」
「ん?気になるん?」
「別に」
正直でない。そこがまたいいのだ。思わず自惚れてしまいそうな自分に軽く喝を入れると机に腰掛け手の中の本を目の前にひらつかせた。
予想通りに眉を寄せ、睨むように見上げてくる。
「snow white?」
「せや。白雪姫。夏休み中に和訳してこいやてー。シャレならんっちゅーねん」
「どうせ自業自得なんだろ」
「えっらいあっさり言うなぁ」
「五月蝿い。帰るぞ」
「あ、そか。待っといてくれてんもんなぁ。おおきに」
鞄を持って立ち上がるその背中にぎゅーっと抱きつくと肘鉄を腹に頂く。
キツイ一発に腹を抱えながらも腕を掴む。さすがにそれは振り払われずに安心して、にやっと笑みを浮かべると不気味なものでも見るかのように顔をしかめた。
「なぁ、白雪姫の最後知っとるか?」
「ああ?王子がやってきてキスをしたら毒リンゴが取れるってヤツか?」
「その続き」
「続き?」
「眠りから目覚めた白雪姫は王子と恋に落ちました――いう話や」
「……で?」
今度ばかりは付き合えないと思ったのか腕は振り払われる。
腹を抱えるのをやめてにやりとした笑みは絶やさぬままに頷くと2、3歩後退さられた。
「自分らみたいやと思わへん?」
「はぁ?馬鹿言ってないで帰るぞ」
「ま、そのうち教えたるわ」
先程と同じ頬にキスを軽くするとスタスタと歩いてドアの前で振り返った。顔を真っ赤にして、頬を押さえて呆然とする姿に笑いが思わずこみ上げてくる。
「……覚えてろよ」
きっと睨んですぐ隣をすり抜けていった背中を追いながら、自分の背にも蝉の声が追いかけてくる。
「もー夏やなぁ」
「ああ、そうだな」
返事を返されるとは思っておらず独り言のように呟いてしまったことに驚くとにんまりと笑って、彼は俺を見ていた。