ぼやけた世界の向こう、何か白と黒のものが目の前に転がり落ちてくる。それは転々と小さな孤を描いて僕の目の前で制止した。
「石田!」
名を呼ばれる。
そうだ、これは体育の時間だ。そしてよりにもよってサッカーと言うチームワークとチームプレーが必要とされる球技。全くもって不得意とする分野だ。
体育の時間、球技と相まって眼鏡はかけてはいない。万が一の場合を考慮してのことだ。
その、ぼやけた白と黒のものを蹴ってくれ、と誰かが僕に手を振っている――らしく、少しだけ肌色が中空で揺れる。
とりあえずその方向に蹴れば、僕の責任は果たせる。それだけを思って適当に当たりをつけて蹴り上げたボールは、確かに高く飛んだ。
それから真下に居た、オレンジの頭に目掛けて一直線に落ちた。
どて、と彼が倒れる音と共にクラスメイトが一斉に駆け寄る。そんな中、呆然と僕は立ち尽くして見ていた。
周囲を取り囲む人垣をゆっくりと押し退け、その場にばったりと倒れた彼の姿に、思う。
こんなことで倒してどうするんだ、石田雨竜。
「体育の時間に眼鏡をかけるなど、言語道断だ。ましてやそれが、球技の日であったなら危険極まりない。だからぼんやりと霞むよく見えないボールを適当に当たりをつけて蹴り上げたら、気持ちのいいまでに高く跳ね上がり君の頭の後頭部目掛けて一直線に落ちるなんて、よくある話だ」
「――言いたいことは、それだけか…?」
「他に何かあるのか?」
顔面から見事にグラウンドに倒れた彼を保健室に運び込み(運んだのは茶渡だが)わざわざ看ている僕に対して、彼はいかにも憤慨した様子で眉間に皺を寄せていた。(元々そんな顔だったような気もする)
「ごめんなさい、とかあるだろうが!」
「ああ、何だ。だから僕は悪くないと言っているだろう」
「お前、なあ…」
はあ、と諦めたような溜息を吐いて彼は手元のティッシュの箱から2、3枚続けて新しいティッシュを取り出した。今まで彼が使っていた――見事に顔面から倒れた為、鼻を強打したらしく鼻血が出ているのだ――は既に真っ赤に染まっている。
「…ワザとじゃ、ねえんだな?」
「当たり前だろう。例え君がどれほど憎いとしても、僕が倒したいのはこんなことでじゃない」
「そうか」
彼はそれ以上はどうでも良さそうにティッシュを持ったままぼんやりと窓の外を見ていた。そろそろ時間が終わるのか、教師が笛を高らかに響かせる。
「くろさ――」
「悪いけどよ、」
そこで彼は一度言葉を切った。校庭に向けられていた視線がゆっくりと僕に向けられる。
保健室、二人きり。シュチエーションはありがちな少女漫画のようなのに、彼の手に握られ、鼻に押し当てられた赤く染まったティッシュだけがやけに不釣合いだった。
そのティッシュが邪魔をしているのか、普段の彼からは到底想像出来ないような妙にか細い声が聞こえた。
「鼻血止まりそうにねえから、俺の服持って来てくれ」
「どうして」
言いかけたところでガラリと保健室の扉が開いたのにはっと振り返るともう制服に着替えた(女子は終了するのが早かったらしい)朽木ルキアがいつもどおり、スカートの裾をひるがえして僕たちの元へと一直線にやって来た。
「ごきげんよう」
にっこりと微笑む彼女に彼はうんざりとした表情でそっぽを向いてしまう。彼女はわざとらしいまでの笑みを絶やすことなくどうしたのかしら、と微笑んだ。
「朽木さん。別に僕の前で演技しなくてもいいよ」
「ああ、そうだったな。つい習慣でな。それよりも貴様ら、制服を持って来てやったぞ。感謝しろ」
僕の言葉に彼女は慇懃なまでの態度にうってかわる。それから二人分の制服を僕に手渡すとすぐに踵を返した。
「看病して行かないのかい?」
「たわけ。何故私がそのようなことをせねばならんのだ。そもそも、貴様ら着替えるのだろう?見ていて欲しいなら居てやっても構わぬが」
ふふん、と鼻で笑うと彼女は保健室からスタスタと出て行ってしまった。鍵はかけた方が良いぞ、といらないお節介を残して。
カシャンと鍵を下ろして元の位置に戻ると黒崎はまたこちらを見ていた。
「そーいやさあ、なんで保健医いないんだ?」
「急病が出たとかで、君が気絶してる間に病院へ向かったよ。他に休んでた人もいたんだけどね…君が運び込まれたと知ったら急に気分が良くなったとかで教室へ戻ったよ」
「ふーん」
興味がないのか、尋ねるだけ尋ねておいて返事はやけに生返事だったのに興味がないなら聞かなければいいのに、と思う。これでは嫌味も通用しない。
はぁ、と溜息を吐いていつものように眉間に人差し指を押し当て――足りないものに気付く。
「眼鏡」
「は?」
「眼鏡が無い」
よくよく考えれば視界がぼやけている。今更になって気付いたことに、黒崎も同じだったらしく「そういやお前、眼鏡してねえなあ」と他人事のように(実際他人事なのだが)呟いた。
「でも、今必要か?」
「いいや。ただ無いなと思っただけだ」
「あっそ。そーいや眼鏡、してるヤツもいたのに何でお前は外してたんだ?」
あいつとか、と校庭を駆け足で教室へ戻るクラスメイトを指さす。同じクラス、同じ競技をしていた彼は、確かに眼鏡をしていた。
「それは個人の問題だろう。僕は万が一の為に外しただけだ」
「万が一って」
「ボールが顔に当たったら、危ないだろう」
「そりゃそうだけど、お前、実際当たったことあるワケ?」
「……」
「…あるのか」
「煩い。別にそんなこといいだろう」
シャッと僕と彼の間のカーテンを引っ張る。オイ、と彼が声をかけるのに僕の着替えを見たいのか!と言うと彼は黙った。
別に眼鏡を外そうと外さまいと関係ない癖に、どうして煩く口を出すのだろう。
僕が体操服の裾に手をかけるのと同時に、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
カーテンが開いた音を打ち消しながら。