夏に近付くにつれその輝きを強めた太陽がじりじりと肌を焦がし、日焼けと言うものはそのあまりの強さに肌が火傷した状態である、と言うのをどこかで聞いたことがあるような気がすると思いながらも僕は額を伝う汗を右手の甲で拭った。
まだ梅雨入りも前だと言うのにこの暑さは異常なものだと思えたが、毎年そうだった、と言われてみるとそうだったような気もしてくる。人の記憶なんてそんなものだ、だからきっとさっきの日焼けの話もどこかで聞いたのかもしれないし、聞かなかったのかもしれない。
長袖のシャツを捲り、じわじわと染み出る汗に不快感を拭えない。それでも歩かねばならず、早く署内に戻りたいと思う時に限って、目の前で遮断機が下りる。
遮断機が下りた向こう側、ぼんやりとかげろうのようにゆらめくその向こう側に見える見慣れた赤い服に一瞬息を飲む。
向こう側に弟がいる。ただそれだけのことに、カンカンと煩く鳴り響く遮断機の音すらもかき消される。
弟はぼんやりと足元を見つめていた。ポケットに手を入れて、屈むようにして、足元で何かをぐりぐりと踏み潰すように立つ、まぎれもない弟の姿から僕は目を離せない。
この暑い中、まだ長袖の赤い服を平然とした顔のまま着こなし、幻のように揺らめいて見える。
向こう側、に彼はいる。
僕のいる場所はこちら側だ。
僕は向こう側へと向かい、彼はこちら側へと向かっている。
それは至極当然のことで、僕も彼も渡る為に遮断機を挟んで待っているのだから、それはとても当然のことなのにどうしてだか皮肉に思えてならない。
ガタン、ガタン、と電車が僕たちの間を遮る。それは秒数にすれば本当に僅かな時間であるにも関わらず僕はとてつもなく長い時間のように感じてしまう。人というものは本当に時間がスローモーションのように思えるのだ、とどこか冷静に考えてしまう程に僕は冷静でなかった。
一瞬にして電車に消された弟の姿に記憶の奥底から大切な物が引っくり返されたような錯覚を覚える。
電車が去って、カンカン、と鳴り響いていた音も止み僕らを遮っていた遮断機が上がる。そこに弟の姿はどこにも無かった。
パコン、と妙に軽い音と共に後頭部に鈍い衝撃が走り、僕は前のめりになりながらも振り向いて構える。
「何ぼーっとしてんだよ、兄貴」
「…達哉」
「あんた、向こうに俺が居たの全然気付いてなかっただろ」
ケラケラと軽く笑いながら弟は手にしたペットボトルを僕に差し出した。
「飲む?」
「あ、ああ…珍しいなお前が僕に優しいなんて」
「ああ?んなこと言うならやらねー」
僕が差し伸べた手からひょいっと奪うように達哉はペットボトルを上にあげる。むっとして睨むと冗談、と言いながら僕の手にペットボトルを握らせた。
「あんた、仕事?」
「ああ、今日は定時には帰宅出来そうだけれど…」
「あ、そ」
聞くだけ聞いて興味なさそうに達哉は左手で赤い服の首元を掴んで右手で中に空気を送るように扇いでいた。
「暑いのなら脱げばいいじゃないか」
「煩い」
妙なところで強情な弟は暑い暑いと文句を言いながらも決して赤い服を脱ごうとはせず、それはまるで太陽のようだ、と僕はぼんやり思いながらペットボトルに口をつけた。甘ったるい、スポーツドリンクを喉に流し込む。既に温くなっていたがそれでもまだほんのりとした冷たさがありがたい。
「ありがとう」
「ん」
礼を述べながら返すと達哉は僕が折角締めた蓋を開いてペットボトルに口をつけた。飲むのなら言ってくれれば僕は蓋を締めなかったのに。
「達哉は今日はどうするんだ?」
「んー…あんた、定時っつったよな」
「そうだが」
「じゃあ、晩飯」
「……わかった」
子どもじみた笑みを浮かべて晩飯をたかる性格は誉められたものではないが、それでもこんな風にコミュニケーションを取れることを少なからず嬉しく思えてしまう。一年前では考えられなかった事だけに、それは嬉しくもあり、そして同時に複雑でもあった。
「それじゃあ僕は仕事だから。終わるまではどうしているつもりかは知らないが、くれぐれも」
「わーってる。あんたの仕事が終わる頃に迎えに行ってやるよ、ちゃんとな。それより兄貴」
「何だ」
「遮断機」
カンカン、とまた再びあの煩い音が鳴り響く。
僕はまた、向こう側へ行き損ねた。
「警察官がまさか遮断機の下くぐったりはしねえよな」
「当たり前だ。警察官でなくともしないだろう」
「俺はするけど」
「……事故にだけは気をつけろ」
思わずメガネを押し上げて溜息をついてしまうと喉の奥でクックッと笑う弟の声が遮断機の煩い音に混じって微かに聞こえた。
「あーあっちーなー」
「なら脱ぎなさい」
「煩い」
煩わしいように、それでも遮断機が上がるのを待つ僕の隣に弟は立ったまま、どこかへ行こうとしない。
僕は向こう側へ行き損ねてこちら側に留まったまま、彼は向こう側からこちら側へやって来て、僕の隣に居る。
「兄貴、カキ氷」
「そのくらい自分で出しなさい」
「どうせ最後にはあんたにたかるのに」
「それでも自分で出しなさい」
「アンタ、」
電車が目の前を通り過ぎる。ガタン、ガタンと大きな音が響き達哉の言葉がかき消される。
「…行ったけど」
「あ、ああ…そうだな」
「あんた、また向こうに行かないつもりか?」
向こう、と言う言葉が弟の口から出るのにドキリとする。思わず達哉の顔を凝視すると達哉は何だよ、と言いたげに僕の目の前にペットボトルを差し出した。
「やる」
「え?あ、達哉!」
「晩飯、忘れんなよ」
僕の手の中にペットボトルだけを残して弟は背を向ける。ペットボトルの中には、半透明の液体が半分ほど残っていた。
溜息を吐いて僕も線路の向こう側へ渡る。渡り終えて、振り向いてそうして僕はやっと気付く。
僕は向こう側へなんか渡れてない。僕がいる場所は、こちら側だ。