何気なく名を呼ばれた瞬間、嬉しかったことに彼は気づいたのだろうか。嬉しくて思わずこっちまで名を呼んだ時、どれほど緊張したことか。
なのに今、現在、かれこれ友人付きあいを始めて1年とちょっとくらいは経っていると思われる本日今この時において、まさか君付けで呼ばれるとは思わず硬直した俺に彼はあろうことか「どうかしたのか?本宮くん」なんて語りかけてくる。
「大輔君何固まってるのさ」
タケルも賢の発言に気付かずに首を傾げるばかり。思わずぐっと乗り出して俺はタケルの肩を掴みガクガクと揺さぶった。
「ちょ、本宮くんどうしたんだ!?壊れたのか?」
ハラハラとした賢が俺をタケルから引き剥がそうと手を掴む。俺は今度は賢に向き直ると肩を掴んで詰め寄った。
「何でモトミヤクンなんだよぉっ!?」
「……は?」
呆然とした賢の表情が目前に広がり、俺は暴走しかけていた意識を戻した。
「本宮くんは本宮くん、だろ?」
俺の手を払いながら賢は数歩下がり、わけがわからないというように首を傾げる。
そんな賢に何か言おうとした瞬間、すぐ隣でポンと大きく手を叩く音が聞こえ思わずそちらを振り返ると我知った顔のタケルがにっこりと俺に微笑みかけていた。
「ははぁ。大輔君ってば一乗寺君に名前で呼んで欲しいんだね」
「なんだ。別に呼び方なんてどうでもいいじゃないか。本宮くんを呼んでいることに変わりがあるわけでもないんだし」
二人の言い草に思わずむっとして二人から視線をそらすとすかさず賢がゴメンと謝る。
「謝るんだったらさー。前みたいに大輔、って呼んでくれよ」
「え?あ、あぁ。別にいいけどなんでそんな名前に拘るのさ」
「そっちの方が親友って感じするじゃんかー」
「親友ねぇ。じゃあ僕も今度から大輔って呼んでいい?」
「却下」
タケルの提案を一言で切ると俺は賢を見た。賢はタケルをちらりと横目で見、すぐに俯いた。
「……ゴメン。悪いけど呼べない」
「え!?なんでだよ今いいって言ったじゃんか!」
「どうして高石は駄目で僕はいいのさ」
「あ…ゴメン、俺、そんなつもりじゃ……悪い」
「謝るなら僕じゃない」
「あ、うん。ゴメンなタケル」
真正面からタケルを見ることが出来ず、俯いてしまった俺の頭をこつんとタケルが小突いた。顔を上げればにこにこと微笑む彼の姿に唖然としてしまう。
「呼べるわけないじゃない。僕、なんとなくなんだけど君付けじゃないと人のこと呼べないんだよね。ホラ、伊織君だってついつい君付けしちゃってるでしょ?だから気にしないで。一乗寺君も、ね。許してあげなよ。彼はそれだけ君の特別になりたいって思ってるってことなんだからさ」
微笑みながらタケルが賢の肩に手を置くと賢も顔を上げてタケルを見て、小さく頷いた。
「うん……反省してるならいいよ。本宮くん」
「だからモトミヤクンって言うなぁっ!」
「……反省は?」
きっと凄んだ時の賢の表情は恐い。普段の穏やかで、優しさの紋章全開モードと比べると偉い違いだ。
「…してます」
大人しく片手を上げて頭を下げると賢はにっこりと微笑んだ。
タケルを見送って俺は賢と駅へと歩き出した。
会話はない。先程までのことでやはりまだ機嫌が悪いのだろうか。
「……本宮」
あ、君がなくなった。それだけでも進歩なんだろうか。
「何だ」
「君は、僕のことを何て呼ぶ?」
「え…」
「僕が『モトミヤクン』って呼ぶと君はいっつも『イチジョウジ』って呼ぶよね。『ダイスケ』って呼んだ時は『ケン』って呼ぶのに。あれはどうして?」
「あ…いや、なんとなく、雰囲気とか?」
んーと悩む俺に賢はくすりと微笑んだ。
「別にね、名前で呼んでも苗字で呼んでも僕は君のことを親友だと思ってるよ。ちょっと、その、僕も色々と…急に大輔と呼べって言われても心の準備が出来なくて、自然に呼べる時が来るまで少し待ってて欲しいんだ」
「そっか…そうだよな。こーゆーのって自然となるよな!そうだよな!ゴメンな強要するようなこと言って」
「ううん。それだけ僕を大切に思ってくれてるのは嬉しいから…ありがとう」
賢は笑いながら俺に手を差し伸べた。俺もその手を掴みぎゅっと握手をする。
「これからもよろしく、本宮くん」
ああ、また君付けに逆戻りか。
「おう!よろしくな、一乗寺!」
まぁ、そのうちそのうち。でも今はせめてこのくらいのワガママは許されるだろうか。
俺は繋いだ手に力を込めた。賢がやや怪訝そうな顔で俺を見る。
「せめてモトミヤにしてくんねえ?タケルと同じにはなりてぇんだよ」
にかっと笑う俺に賢も理解したかのように笑った。
「了解。でも君付けも特別だと思わないか?」
「他人行儀の特別にはなりたかねーなぁ」
声を上げかけた俺の視界の端に駅が映る。賢もそちらをちらりと見て、俺を見た。
「あ…ここまででいいよ。見送ってくれてアリガトウ」
つながれていた手が離れて、目の前で振られる。バイバイ、と小さく声に出すと賢はくるりと俺に背を向けた。
「あ、一乗寺!」
思わず呼び止める。くるりと振り返り、賢は首を傾げた。
「何?本宮」
「あ…いや、またな」
「うん。またね」
賢はにこりと微笑むと駅へと消えていった。その背に手を振り、見えなくなって俺はきびすを返して一気に走り出した。
今一体どんな顔をしているんだろうか。別に幾度となく呼ばれた名であるのに、それがたまらなく嬉しい。
まだまだ大輔に昇格するまでの先は長そうだけれども、勢いで呼ばれるのではなく、意識せずに、大輔と呼ばれる日まであいつが嫌がってでも親友でいてやる!
心に誓い一度駅を振り返る。丁度ゆりかもめが発車しようとしていた。
「賢っ!」
聞こえないだろうけど、名を叫ぶと俺はまた電車に背を向けて走り出した。