そろそろお昼だと言うのに朝に出かけたままの隣の部屋の住人は帰ってくる気配を見せず、さすがに心配になってきたレックスが重い腰を上げたのは、ふよふよと飛ぶ小さな妖精が船に辿り着いたのと同時だった。
「先生さぁん!」
「あ、マルルゥ。ウィル知らないか?」
船を出たばかりのレックスを見つけて小さな妖精は飛びついた。何かあったのか身振り手振りも慌しくレックスは少し落ち着いて、と声をかけたがマルルゥは首を横にぶんぶんと振って力いっぱいに叫んだ。
「その、委員長さんが大変なんですぅ!」
「ウィルが?」
「はいです!収穫のお手伝いをしてもらっていたですが、委員長さん急に深い穴に落ちてしまって、出て来れなくなったですよ!」
「穴!?」
「そうですー。穴です。それで、動けないから大人を呼んできて欲しいと委員長さんに言われたので先生さんを呼びに来たです」
「…わかった。案内してくれるかな?」
話を聞いていても仕方が無く、そもそもウィルが大人を呼んできてとマルルゥに頼むなんてことから察するに窮地に立たされているのだろう。
若干焦りの色を浮かべたレックスに、マルルゥは自信たっぷりにはいです!と返事をした。
「…穴、だね」
「穴ですよ」
溜息交じりの声が深い穴の底から聞こえてきたのにレックスは苦笑する。
「思ったより元気そうで良かった」
「良くはありません!どうしてこんなところに穴があるんですか!」
「ああ、それはヘルモグラの穴だよ。何層分か一気に崩れたみたいだね」
「どうして、僕が上に居た時に限って」
「蓄積されていたんじゃないかな。それより、ほら、捕まって」
大人一人分くらいありそうな高さの穴の中に手を伸ばす。きゅ、と下から強く引かれてズリ落ちそうになるがなんとか踏ん張って両手でウィルの手を掴むと一気に後ろに引いた。
どすん、と背中が地面につく。同時に子供一人分の体重がずっしりと体に圧し掛かった。そして穴の底から聞こえる、のどかな声。
「ミャーミャ」
「テコ…も、居たのか」
起き上がってウィルが腕の中に居る事を確かめてほっとする。が、ウィルはすぐにレックスを突き飛ばすと穴の底に向かって手を伸ばした。
「テコ!」
「ミャーミャミャー」
「…届かない」
精一杯手を伸ばすがウィルよりも小さなテコに届くわけも無く、その穴の深さから考えるとレックスでも届きそうに無かった。
暫く手を伸ばしていたがやがて諦めたように溜息をつく。
「…ウィル」
「……テコ、いくよ!」
「ウィル?」
「先生、すいません!」
すくっと立ち上がるなり尻餅をついたままのレックスに頭を下げ、ウィルは召喚石を取り出す。緑色をした、テコとの誓約の石。
「まさか!?」
「召喚!」
ウィルの呼び声に合わせて、テコが小さく鳴いた。
「今気付いたけど、何も召喚術使わなくても送還すれば、良かったんじゃ…いや、それ以前に杖とか…」
「ですから、さっきからすいませんと何度も言っているじゃありませんか!しつこいですね、貴方も」
「…いいけど。さて、そろそろお昼だし、帰ろう」
はぁ、と溜息を吐いてレックスは立ち上がり、腰についた土を払ってウィルに手を差し伸べる。が、ウィルは困ったように視線を逸らして俯いてしまう。
「……今はそんな気分では無いので、僕は後でいいです」
「…ウィル、そう言えばマルルゥに動けないって言ったらしいね?」
びくん、とウィルのわかりやすい反応にレックスはしゃがむとそっとウィルの足に手を伸ばした。ウィルが止める間も無く足首を少し強く掴む。
「いたっ!」
「…捻っているだけ?」
「…別に、さっき立てたから、平気です」
「そうはいかないよ。クノンに看てもらわなきゃ」
「ミャーミャ!」
そうだ、と言うようにテコが鳴いたのにほらね、とレックスも笑う。しかし、とまだしつこく粘るウィルにレックスはううん、と頭を掻くと指をびしっとウィルの鼻先に突きつけた。
「それ以上言うなら、抱っこするよ」
ぶらぶらと揺さぶられる足が頼りなくて、ウィルはきゅっとレックスの首に回した腕に力を込める。
レックスはそれを少し勘違いしてよいしょ、と背負いなおした。
「…先生」
「ん?」
ぼそ、と囁くような声に振り向かずに返事をするとウィルは伏せるようにレックスの肩に顔を埋めた。
「僕は、情けないですか…?」
「……そんなことないよ。どうしてそんなことを?」
「だって、何も無いところを歩いていたら穴に落ちて、おまけに足を挫くだなんて」
「そんなこと情けないわけないだろう。それにね、俺も落ちたんだ。ヘルモグラの穴にね」
「先生も!?」
ばっとウィルが顔を上げた拍子に髪がふわりと頬をくすぐり、少しむず痒くてレックスは笑った。しかしウィルは勘違いしたらしくわざと腕に力を込めた。
「ごめん。でもね。俺だけじゃなくてジャキーニさんも落ちたんだよ?」
「…そんなに……」
「そうそう。ヘルモグラの掘った穴は結構あってね。だから、あれほど深いのは今日が初めてだけど俺も何度か落ちたんだ」
ヤッファさんなんかあれでもっと落ちてそうだよね、とレックスが笑うのに小さくうん、とウィルも笑った気配がして、全体重がレックスに預けられた。