離れていく体温を追いかけようと闇の中に手を伸ばす。
伸ばしても伸ばしても届かない手は、やがて温度を失い凍えていく。冷たく冷たく、あの、北の果ての街に吹く風のように。
そうして俺は何度目かの夢を見る。
寒い、と思って目がさめた。
布団の上に剥き出しにした腕が冷える。
でもあの寒さはこんなもんじゃない。今きっと裸で外に飛び出したところで、あの寒さは味わえないだろう。もっと寒くて、暗くて、深くて――怖い。
覚えているのは、あの喪失感。
バラバラに引き裂かれて、もう二度と会えないと絶望を味わったことなんてあっただろうか。昔派閥に連れてこられた時もこれほど執着したものなんて無かったから、そんな覚えはないはずなのに。
ネスはよく一族の記憶を引き合いに出して話をするけれど、どうして俺にはないんだろうか、なんて何度か思ったこともあった。俺も一緒になって苦しめれば良かった。そうすればネスばかり苦しめることもなかった。先祖の罪なんて実際自分に実感なんてなくて、ネスが恨む相手がこれじゃ、きっとネスは報われない。報われなくて、憎むべき場所もなくて、そうして恨みは人間全体に広がって、俺もネスもきっと一部ばかりを見すぎなんだとは思う。良くない面ばっかだ。これじゃネスが俺を含めた人間全部を嫌っても仕方ない。人間である俺でさえ思うんだ。ましてや人間でなくて、迫害された記憶を持つネスならなおのこと恨んで当然、憎くて当然。なのに俺なんかを好きになったばっかりにネスは憎むべき方向をなくしてしまった。一番憎いはずの俺が、こんなだったから。
メルギトスなんて、俺に都合がいいくらいだった。メルギトスがいなければネスは苦しいままだっただろうから正直、居てくれて良かった。都合が良すぎるほどだ。一番憎いはずの俺なんかを好きになってしまった為にネスは一族の憎しみと苦しまなきゃならなかった。そこを、あのメルギトスが全部自分のせいですときたもんだ。これ以上都合いい憎むべき相手なんていないくらいに。
メルギトスが俺に都合のいい言葉を並べて、ネスを苦しめて、それでも救って、ええと、それから――それから。
ああ、俺は一人になったんだっけ。
毎朝俺は繰り返し繰り返し確認する。夢と混合しないように丁寧に思い出す、声の調子、笑い方、怒り方。全てが俺の見た夢ではないかと錯覚してしまう程に、そう思えれば心地よいと思う自分がいるから、きちんと全てを思い出して確認する。
ネスは居た。そして居ない。
「寒い……」
窓を開いて換気をすると冷たい風が入ってくるのに思わず窓を閉めた。
『駄目だろう。ちゃんと換気をしないか。寒いからと言って換気をしないと今に部屋に蟲がわくぞ』
「わかってるよネス…お昼になったら」
朝はまだ寒い。だから許して。
心の中で謝罪をするとネスはしょうがないという風に笑う。甘やかしてばっかだね、ネスは。
ドアを開けると朝食のいい匂いがしてきた。
「おはようマグナ」
「ああ…おはよ」
アメルは健気に俺に尽くしてくれる。でも俺はアメルじゃ駄目だと思う。欲しいのは慰めの言葉でも、尽くされることでもなくて、ただ叱り付けるあの言葉。
「ご飯、出来てますよ。バルレルは先に済ませて行ってます」
「あ、ああ…ありがとう」
椅子についてアメルの作った朝食を手にする。
「寒いですね…急に冷えちゃって」
「うん…そうだね」
ぼんやりとネスは寒くないかな、と思う。聖樹は冬も枯れることなく緑の葉をつけてまだ人々を守っている。いつまで、どのくらい守り続けるのだろう。いつまで、どこまで、誰の為に。
俺は汚く世界に生きるもの全てに嫉妬する。俺だけのネス。俺だけだったのに、どうして。
「おいニンゲン」
「あ、バルレル、先に行ったんじゃ」
「行ったさ。でもよぉ。美味そうな気がするから帰って来た」
「美味そう?」
アメルの作った朝食は確かに(ちょっと変わった味がするけど)美味しい。そのことだろうか、と思っているとバルレルがはぁと溜息を吐いた。
「悪魔にとっての美味そう、だ。意味分かるか?このバカ」
「バルレル…」
バルレルはあれ以降、俺のことを「バカ」と呼ぶ事が多くなった。それは多分、ネスの代わりに言っているのだろうけれど、やはり俺にはあの声でないと効果はないらしい。
「てめえの考えていることくらいわかんねーわけじゃねえよ」
「あ…うん。わかってる」
悪魔に力を与えてどうするんだ。全く俺はどうしようもなくバカらしい。それと言うのも叱ってくれる人がいないからだ。
バルレルがまた溜息を吐く。それから街に買出しに行くと言うアメルについて、出て行った。
誰が聖樹なんて呼び出したのだろう。冬になっても緑の葉を枯らすことなく光で全ての人を慈しむような聖樹。聖なる大樹?何だっていい。俺にはどうでもいい名前だ。
だってこれは、ネスなのだから。誰がどう呼ぼうと俺は知らない。それどころか勝手な名前でネスを呼ぶな!とどれだけ叫びだしたかったことだろうか。
冷えたと思っているとちらほらと白いものが頭上から降り注ぐのに俺は足を急がせた。
「ネス、寒いだろ?」
剥き出しの樹の幹にそっと手を這わせる。そこだけは妙に暖かいような気がして俺はそのまま幹に頬を寄せた。
「なぁネス、俺、どうしたらいい?このままじゃ駄目だってわかってるのに俺、何も出来ない。ネスがいなきゃ、叱ってくれなきゃ」
返事をする人はいない。わかってはいるのに俺は話し掛けるしかない。
ひらり、と白い雪が葉の隙間から零れ落ち、俺の肩に落ちる。きっと積もる。季節は幾度か巡るけれど、俺はいつまでも同じまま。いつまでもいつまでも、あの日、あの時のまま。
「卑怯だよネス…わかってたんだろ?俺がこうなるって。ずっと忘れられないって。ずるいよ…自分だけ勝ち逃げてさ」
遠くで誰かが呼ぶ声がする。多分、あの時の仲間の誰かが訪ねてきたのだろう。
「誰か来たみたいだからいくね…また来るから」
樹の幹から体を離してまた見上げる。応えるように木の葉がカサカサと擦れるのが錯覚でも嬉しかった。
「じゃあ…ネス、好きだよ」
指を一本一本樹から引き剥がすように俺はゆっくりと手を離した。
最後まで触れていた右手の人差し指に触れた風はあの町の風と同じ温度のような気がした。