よくノリが効いたワイシャツの袖に腕を通してボタンを一つずつ上からかける。それから色とりどりなネクタイの中から今日の気分に似合う色のものを取り出して締める。今日はシックにいこうか、なんて思っているとベッドからのそりと起き上がった彼が寝ぼけ眼で、その目を擦りながら「おはよう」、と小さな挨拶をした。
「ソル、まだ寝てていいのに」
「別に」
何が別に、なんだかわからない返事をしただけでソルは押し黙ってベッドから滑るように降りる。足元のパジャマとお揃いの水色のスリッパに足を通してペタペタと変な足音を立ててドアに真っ直ぐに歩いて行った。
「ソル?」
「朝食、まだだろ」
「そうだけど…時間が」
「ないのか」
むっと眉を寄せた彼に僕はしまったと口を塞ぐ。それから慌てて時間の計算をする。朝食を今からソルが作っている間にえーと準備を済ませて――食事は5分。それでギリギリ。
「いや、大丈夫」
「無理しなくてもいいぜ。それに別に俺が手料理を作るわけじゃない」
「え?」
「やっぱこっちは便利だよな。牛乳混ぜるだけで栄養取れる食事があるんだからな」
すっかりと目が覚めた彼はからかうようににやりと笑う。そのまま僕を取り残してドアの向こうに消えていった。
ペタペタと、小さな足音が遠ざかる。
――食事の時間は、たっぷり5分。
日本で最も痴漢が多いと言われる電車は今日も最高の混み具合だった。けれどこれに乗り遅れれば、会社に間に合わない。
行列に並びながら溜息を吐く。繰り返されるだけの毎日にはうんざりする。
そう言えば高校生だった頃、こういった生活を送るのに躊躇っていた頃があった。全く若かったと思うがあの日の僕がいなければ今現在こうしている僕も、そして部屋で僕の帰りを待ちわびているソルもいなかったのだから、そう悪くはなかった。思春期の思い出というものは得てして美化されるものではあるが。
横にある大事なものを見つけて、でもそれを僕は貫き通せなかった。ただそれだけのことだ。選んでしまった道に今更どうこう言うつもりもないし、言えた義理もない。色々なものをあの時僕は捨てたのだから。それも若かった、と思う。
電車に揺られ、隣のくたびれたスーツのサラリーマンと肩をぶつけ合う。彼のタバコの匂いが僕のスーツにまで染み込んでしまいそうだ。いつかは僕もこんな人になってしまうのだろうか。
ああ、いやだ。いつまでも若いままではいられないとわかってはいるが、くたびれた中年にはなりたくない。そう言えば最近前髪が少し薄くなり始めた気もする。気になって前髪を弄くっていると何だか本当にマズイような気がしてきた。
駅に止まり、大量の人間が降車する。その代わりにまた大量の人間が乗車してくる。狭い車内に人がいっぱいに広がり、ぎゅうぎゅうに押し合う。前髪を弄るために中途半端に上げた手が人込みに押されて下ろせなくなり、仕方なしに吊革につかまる。妙にじっとりとした感触が気持ち悪い。前は一体誰が持っていたのだろうかと思いながらも気休め程度に吊革を回す。
ガタンと音を立てて発車するのに、ドアの向こう、駆け込もうとしたサラリーマンが諦めたように歩いているのが見えた。
狭い車内に密閉された空気に窒息しそうになりながら、目的の駅が近付いてくるのにこの小さな空間から開放される喜びと、また会社の人と顔を合わせる憂鬱な気分が入り混じった溜息を一つだけ、吐いた。
「おはようございます」
タイムカードを押しながらにこやかに挨拶。今日もピッタリ。言い換えれば遅刻ギリギリ。けれどもちゃんと着きさえすれば文句もないだろう。
「おはよう、深崎クン」
「おはようございます」
お局様は今日も元気だ。笑顔と共に僕の肩に触れる。これはセクハラじゃないと言うのだから日本の法律って結局男女平等じゃないと思う。男が触れれば訴えられるような世の中、女はいいのか。
「おはよう深崎君」
「ああ、おはよう」
その点同期の女の子たちはまだいい。触れようともせず、顔を赤らめる程度だ。学生時代の感覚の抜けきれていない彼女たちの方が余程扱いやすい。
席に着いて、机に置かれた書類に目を通す。こんな紙切れ、何の役に立つのだろう。ソルに言わせれば本当に『紙屑』なんだろうな、と思って一人でくすりと笑うと隣の席の先輩に「どうした?」と問い掛けられて首を横に振ることになる。
今日も面倒な一日が始まる。
決して会社が嫌いなわけではない。同僚とも上手くやっているし、仕事もそこそこ順調だ。
ただ一度知ってしまった別の道に、時々不意に戻りたくなる。若かった僕の過ちを無かったことにして、向こうで暮らして居たかった。あのまま暮らしていたら、やっぱりこっちに戻りたかった、と思ってしまうのだろうか。
結局のところ誓約者だ何だともてはやされても僕はただの利己的な人間でしかあり得なかった。不都合が出ればその都度後悔を繰り返し、そうしてから前に歩き出す。
こんなこと、ソルには一生言えやしないけど。
帰りのラッシュにも耐え、いつもの駅の改札をくぐるとポツリ、ポツリと雫が零れ落ちていた。
「うわー…」
これは本降りになるなあ、と思わず口に出してしまってから今朝の天気予報を恨む。降水確率30%って言ってたじゃないか。そりゃ、3割降るわけだけど。
「トウヤ!」
「え?…ソル、どうして」
「何って、迎え」
さも当然のようにソルは手にしていた傘を僕に渡す。ソルの手にはちゃんと自分用の黄色い傘が握られていた。
「でも、今から本降りになるのに……」
「ああ?勘だ勘。昼頃に降るだろうな、と思ったから買い物ついでにな」
まだ買い物してないから付き合えよ、とソルは笑って自分の傘を開き、小降りの空の下に身を出す。
「早くしろよ。特売品なくなったらおかず一品減るぜ」
「あ、待って、ソル」
慌てて自分の黒い傘を開く。すたすたと歩いて行ってしまうソルの後ろを追いかけて、横に並ぶとソルは傘が邪魔だから後ろに居ろ、と少し拗ねたように言った。
「俺の勘も捨てたもんじゃないだろ?」
「そうだね。ところで今日の晩御飯って、何?」
「さあな。とりあえず買い出ししてから、だな。……お前、何かあったのか?」
「え?」
急に真剣な声で問われてギクリとするとソルの手が僕の頬に伸びる。肩にかけられた黄色い傘がくるりと回るのをぼんやりと見ていると両頬を引っ張られた。鋭い痛みにソルの手を引き剥がす。
「痛いよ、何をするんだい」
「いや、別に。変な顔だなと思って」
「別に、じゃないよ……」
ひりひり痛む頬を押さえながら、それでも何だかくすぐったさに笑うとまた変な顔だとソルにどやされて必死に顔を作る。
「悪くない、よね」
「何がだ」
「今の僕」
「顔がか?」
明らかに怪訝な顔をしたソルがどうでもいいとばかりに自分の傘を僕の傘にぶつける。軽い衝撃に僕も僅かにやり返すとソルは苦笑した。
「バカみたいだ」
「先にした癖に」
顔を見合わせて喉を震わせて笑う。悪くない。今のこんな生活も、たったこれだけのことで悪くないと思えてしまう。ささやかな幸せ。
「あれ」
笑い終わった後、ソルが何かに気付いたかのように僕をじっと見る。
「どうかした?」
「いや、お前、ちょっと」
ぐいと引き寄せられ、間近に迫るソルの顔にドギマギしているとやっぱり、とソルが呟く。
「何?」
「いや……」
「ソル」
言いにくそうに口ごもりながらもソルは顔を上げ、意を決したのかはっきりとした声で言った。
「少し薄くなったんじゃないか?前髪」
ああ、やっぱりこっちで良かった。こっちには最先端の技術がある。