「離さないでくれ」
真剣な声で懇願するキールに、離しなんかしないよ、と答える。それでもキールは不安なのか、幾度も離さないでくれ、絶対に離さないでくれ、と繰り返した。
「離せないから」
こんなふらふらなキールを放っておけるわけないだろう。
今だって、俺が絶対離さないって言ってるのに信じられず振り返ろうとして、電柱にぶつかりそうになっているんだから。
「ほらキール!前見て!ぶつかる!!」
ぶつかる!と叫んだときには大体手遅れで、見事に自転車は電柱にぶつかり、キールはよろけて自転車から落ちた。
道路に投げ出されたキールに、慌てて自転車を放って手を伸ばす。しかしそれはキールによって片手で制される。
「大丈夫だ」
「でもキール、怪我」
「すりむいただけだよ。平気だ。それよりも、もう一度」
「…わかったけど、手当てが先な」
慣れたもので、キールも砂を払いながら立ち上がり、あちこち擦り剥いた箇所を確認する。俺もやっぱり、慣れたくもないけど6回目にもなると慣れてしまって、最初から用意しておいた水入りのペットボトルをキールに差し出した。
キールはそれを受け取ると傷口をざっと洗い流すのでその間に俺も絆創膏を用意する。
既に5回これをやってきたのだ。今更キールがちょっとやそっとの怪我をしたくらいで文句は言わない。それこそ、最初はもう自転車なんて乗らせるものかと思ったのだけれどキールは頑なに譲らず、彼がそれほど自己主張するなんてことが珍しく思えて口を出すのは止めた。
絆創膏を傷口に貼るとキールは自転車を起こして、俺をじっと見る。そこにはやはり、俺に反対されるのだろうかという不安が見て取れて居たたまれない。
「…やろっか」
「……すまない」
「いいって。ほら、ちゃんと座って。今度はきちんと前見てろよ。離さないから」
ひらひらと手を振って追い払うような仕草をしてから自転車の後ろに手を添えるとキールはそっとサドルにまたがった。
普段俺のサイズに合わせてあるその高さも、今はキールの高さに合わせて上げてある。それがなんだかちょっと悔しい。
「ほら、行くぞ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ…!」
「待たない。ホラ漕ぐ!」
「わ」
ぐっと後ろから押すとキールは慌ててペダルに両足を乗せた。乗せたものの漕ぐには至らずペダルがただ回転するのに操られているようで、足に力を入れて!と指示を出してやっとキールの力でペダルを踏み出した。
「…キールはさ、嫌?」
「え?え、なんだい?ちょっと、待ってくれ」
自転車に集中しているキールに声をかけるとすぐバランスを崩してしまいそうになるので、あまり声をかけたくないのだけれど思わずこぼした言葉にキールは両足を地面につけて、自転車を止めてから振り返った。
「なんだい?」
「…キールは、や?」
や、なんて尋ね方は子供っぽく感じるけれどちょっと拗ねた気持ちの今はこれでいいような気がした。
「や?」
「俺の後ろに乗るの、嫌か?」
「や…じゃないよ?」
俺の真似をしてキールも「や」なんて言いながら首を傾げる。嫌じゃないよ?どうしてそんなことを聞くんだい?とその仕草だけで訴えてくるのに、その仕草が妙に可愛く思えてしまったことが恥ずかしくなる。
「…じゃなんで自転車の練習なんて突然したいなんて言い出したんだよ」
恥ずかしくて、拗ねた口調になってしまった。それがまた更に恥ずかしい。
キールは俺の気持ちなど知らず、ただ拗ねた俺に困ったな、という感じに苦笑した。
「君を後ろに乗せたかったんだ」
「俺を後ろに?」
「…いつも、学校から疲れて帰ってくる君の後ろに乗せてもらうのは僕だったから、僕は疲れていないのに、疲れた君を更に疲れさせていたから、君を後ろに乗せたいと思ったのだけれど…駄目かい?」
キールのその言葉は、俺に離さないでくれと懇願しているときと同じくらい真剣だった。いや、キールはいつだって真剣だ。真剣に、俺のことを考えてくれている。
「駄目じゃないです…嬉しいです」
「本当に?」
「うん、ホント、嬉しい。ありがとうキール」
キールが俺のためにしてくれる、その気持ちがとても嬉しい。でもその反面、もう後ろに乗ってくれないのかな、と少しだけ寂しい。
「じゃ、がんばろ」
「うん」
俺に背を向けて、キールはまたペダルに足を乗せる。今度はゆっくり、ゆっくりと踏み込んでいくのに、俺はそっと自転車のバランスを取りながらついて歩く。
必死にハンドルにしがみつくキールの背中はちょっと猫背になっていた。俺が後ろに乗るって事は、この背中にしがみつくってことか、と考えてみると悪くないような気もしてくる。
でもやっぱり、ぎゅっとしがみつかれるのが好きだ。キールはあんまり俺の負担にならないように、と触れるだけみたいな掴まり方をするけどたまにスピードを出したときだけはぎゅっとしがみついてくれる。それがやっぱり、とても好きだ。
「寂しいなぁ」
「な、何か言ったかい?」
「なんにもー!!」
腹癒せのように声を張り上げて、それと同時に自転車から手を離した。
キールはまだ正面を見据えたまま俺が手を離したことに気付いていない。まっすぐ走ろうと、ふらふらともたついている姿に「あーでも俺がキールの後ろに乗るのは遠い日だなぁ」とちょっとだけ喜んでいいのか悪いのかわからないようなことを思った。
「ハヤト、持っているかい?」
「いや、離してる」
「何だって!!」
がっしゃん。
7回目のペットボトル用意。
さすがにキールの俺を信じる気持ちが少しだけ薄れたらしい。
何度もキールが振り返りながらペダルを漕ぐのに、余計危ないような気がしてうっかり離せなくなってしまった。
「今度は、離さないでくれ」
「嘘は吐いてないだろう…」
「言うのが遅いよ」
つぶやきに返ってきた言葉に、聞いていなくていいときだけ聞いているんだからと思ったけど言えばまた聞かれていそうだったので飲み込んで代わりに自転車を力任せに押した。
「わっ、ハヤト!待ってくれ」
「待たないー!」
力いっぱい押しながら走る。キールも振り返る余裕をなくしてバランスを取ることに専念しているようだった。
だから、そっと立ち止まっても気付かれない。
キール。俺は最初で最後の嘘を吐く。
「離してないよー!!」
離れた距離を埋める分、大声を出したのにキールは振り返りもせずに「嘘つき!」と叫んだ。
そして、8回目。