ピピピピ、と遠いような近いような、ぼんやりとした意識に徐々に浸透してくる音に向かって寝返りを打ち、うつ伏せて手を伸ばす。
固くて冷たいものが指先に当たり、それを掴んで引き寄せると間近から煩いまでの電子音が響くのに、重い瞼をうっすらと開いてそれが一体何であるかを確認した。
小さな四角い箱のようなものの一部が出っ張っており、また一面だけ透明になっているその下に長い針と短い針といくつかの数字が丸く円を描いて並んでいた。逆さまに見えるその数字を正しく見えるよう手の中でそれをひっくり返すと途中、掌が出っ張っていた部分を押し、鳴り響いていた音がぴたりと止んだ。
それを右手に抱えたまま、膝を曲げて体を丸め、左腕を天井に向かって伸ばし上半身を起こして大きく伸びながら、キールはちらりと針の位置を確かめる。
短い針が6と7の間、長い針が丁度6。いつもより30分も早く起こされたことにキールは両手でしっかりと持ち直すと文字盤をじっと睨みつけた。何故早く起こしたのだと小さな箱に問い詰めそうになりながらも昨夜のことに思考を巡らせる。
『明日朝練で早いから、6時半までには起こしてくれないか?』
本当は6時に起きなきゃいけないんだけどさ、と付け加えて笑った顔に、小さな四角い目覚まし時計をその時刻に合わせたような気がする。――確か、そうだ。
足元に積み重なった布団から抜け出し、時計を適当に棚の上に置くと扉を開く。しんと静まり返った廊下に面した窓からまだ白くぼんやりとした空が見えたのにキールは僅かに寒さを感じてぶるりと体を震わせた。
目的の部屋はすぐ隣なのに、その間を移動しただけでも体が大分冷えた気がして、急いで扉を叩く。
やはりと言うか、思った通り扉の向こうからは返事は無い。
それでも念のため「開けるよ」と声をかけて、キールはそっと扉を開いた。
閉めるのを忘れたのか、カーテンの引かれていない窓の向こう側は、やはり白くぼやけた世界が映っていた。カーテンに遮られる事無く冷えた空気が部屋の温度を下げていた。にも関わらず、気持ち良さそうに眠る姿にキールは少し溜息を吐く。
近付いても起きる気配も見せず、ハヤトは寝息を立てていた。その枕元には職務を果たせなかった目覚し時計が転がっている。
「…ハヤト」
いつもならば呼びかければ、笑って振り向いてくれるのに、ハヤトは目を閉じたまま動かない。
そっと肩に手を置いて揺らしながら、もう一度呼びかけようとすると嫌がるようにその手が払い落とされてしまったのに、キールは吃驚して凍りついた。
「…と、…ふん」
「え?」
「あと、30分……」
むにゃむにゃと、口の中で呟いた言葉にキールは呆然と、しかし頷いた。
ハヤトはごろりと転がると壁に向き合い、キールに背を向けて規則正しい呼吸を繰り返した。
なんとなく背中に人の気配を感じて、深く沈んでいた意識が浮上してくる。暖かい、でも少し冷たい気配には心当たりがあった。
「…ハヤト……」
囁くように名を呼ばれるのは嫌いじゃない。くすぐったくはなるけれども。
ひやりとしたものが左肩に置かれる。キールの手だ、と思うと同時にあまりの冷たさに吃驚して意識が急上昇した。
「ハヤト30分、経ったのだけれど」
ぱちっと目を開いたと同時に聞こえたのはそんな言葉だったのにハヤトは飛び起きた。
振り向いてキールと視線を合わせる。キールはやや吃驚した様子で(傍目にはちょっと眉が上がっているな程度だけれど)ハヤトを見た。
「あ、おはよう…」
「え?あ、うん。おはよ」
ぼりぼりと後頭部を掻きながらぼけーっとキールを見上げて、暫くしてから我に返って布団を蹴り上げベッドから足を降ろした。
「30分って?」
「…君が、言ったのだけれど。あと30分と。だから、待っていた」
「…30分?」
「30分、だけれど?」
「30分、そこに居たの?」
そっと下から手を合わせると肩を揺すられたあの手の温度が伝わってくるのにハヤトは眉を顰めた。
3月に入ったとは言えまだまだ朝は気温が低く、空気はとても冷たいのにそんな中、パジャマのままで30分もぼんやりと待っていたなんて。
「いや…」
「居たんだろ?」
「…うん」
むう、と拗ねた顔で睨まれてキールは困ったように視線を逸らした。剥き出しのままの窓が視界に入る。外は霞みがかった世界から抜け出そうとしていた。
「…30分」
「え?」
「30分、経ったから。今、7時になったのだけれど」
キールの手を温めようと擦り合わせることに熱心だったハヤトは、キールのその言葉に口をしばらくあんぐりと開けて、絶叫した。
「あああ、もう、いい!」
朝食は?と尋ねるキールにいらないと意思表示をしてハヤトはリビングを走り回る。
寝癖のついた髪をどうにか戻そうとするがどうにもならず、また時間も足りなかった。
「…ハヤト、カバン」
「あっ、サンキュ!」
「いや…中、入っていないけれど」
キールの言葉にカバンを肩にかけて、下ろして開いた。確かに中身は空っぽで、教科書どころか筆箱も入っていない。
「今日って何曜日!?」
「水曜日だけれど」
「水曜日~って、何?」
「…生物と英語と古文と体育と数学とHR」
時間割を暗記しているのか、学校に通ってもいないキールがさらりと答えるのに学校に通っているハヤトはバタバタと自分の部屋へと駆け戻り言われたとおりの準備を抱えて戻ってくる。しかし、それは言われた半分程度であったのにキールは首を傾げた。
「それだけかい?」
「あー…ほとんど学校に置いてるから。これは予習とかで持って帰ってきてた分」
やってないけど。
詰め込みながらも答えるハヤトに、キールは弁当を差し出した。ハヤトはそれを見ずに受け取ると適当にカバンの中に突っ込んでファスナーを閉じ肩にかける。
「…片寄るよ」
「あとで直すって!んじゃ、行ってくるから」
「ああ…行ってらっしゃい」
カバンを肩に玄関で靴を適当に履くとハヤトはいつもならばそのまま出て行くのにそこで振り返って、キールを見上げた。元々の身長差に加えて今は段差があるので視線はいつもより上向きになる。
「キール。あのな。明日も早いけど、俺の言う事は聞かないでいいから」
「…どういう意味だい?」
「寝ぼけてる俺の言う事は聞かないで、もう時間が来たら叩き起こしてくれ。絶対に、待つ なんてことはしないでくれ」
朝のように手を取りながらハヤトはじっとキールの目を見た。キールは困ったように、頷く。
キールが頷いたのにハヤトはほっとしてキールの手を離すと、それじゃ、と背を向けて玄関の扉を大きく開いた。
朝陽が輝く世界の中へと、飛び出していくハヤトの背中が玄関の扉の向こうに消えていくのに、キールは静かに鍵を落とした。
朝の静寂の中、小さな電子音が聞こえたのにキールはうつ伏せて目覚し時計を止めると起き上がった。ううん、と大きく両手を上げて背伸びをして、立ち上がり扉を開く。
廊下の窓から見える世界は、やはり白くぼやけていた。
すぐ隣の部屋の扉をノックし、返事が無いことを確かめて声もかけずに扉を開くと、正面の窓から外の景色が見えたのに僅かにキールは眉を寄せる。
「また、カーテンしてない…」
直接冷やされた部屋は一部を除いてとても冷たい。そのただ一点の温もりは目覚まし時計を抱えて眠っていた。
「ハヤト」
呼びかけても、すやすやと気持ち良さそうに眠ったまま。
「ハヤト」
強めに呼びかけ、肩に手を添え揺らすとまたしても振り払われた。そのままごろんとキールに背中を向け呟く。
「あと30分……」
むにゃむにゃと、口の中で呟かれた言葉に、キールは振り払われた手でぎゅっと握りこぶしを作った。
ゴンと鈍い音を立てて、それが頭に振り落とされる。
急な痛みに起き上がって頭を抱えて呆然とするハヤトに、「だって叩き起こせと言ったじゃないか」とキールはいつものように囁いて、ハヤトの頭の中を真っ白にさせた。